北京2022オリンピックCAS仲裁報告 -CASオリンピック仲裁の概要からワリエワ事件まで-

はじめに

 2021年夏の東京2020オリンピックから約半年、北京2022オリンピックが2022年2月4日から同月20日まで開催された。
 北京2022オリンピックでは、アスリートの華々しい活躍が多くの感動を呼んだ一方、ロシアオリンピック委員会(以下「ROC」という。)に所属するフィギュアスケーターであるワリエワ選手のドーピング違反疑惑に起因する出場資格の問題が大々的に報道され、スポーツ仲裁裁判所(Court of Arbitration for Sport)(以下「CAS」という。)のAd Hoc Division(臨時部。以下「CAS AHD」という。)の判断が注目を集めた。ワリエワ事件以外にも、CAS AHDにいくつかの紛争案件が係属し、迅速な解決が試みられた。また、オリンピック期間中のドーピング検査により、CASのAnti-Doping Division(以下「CAS ADD」という。)にも複数の案件が係属した。
 本稿は、IにてCAS AHDを概観し、IIにて北京2022オリンピックにおけるCAS AHDの案件の数・傾向を、IIIにて注目を集めたワリエワ事件を含む2件の仲裁判断の概要を、それぞれ解説する。

I  CAS AHDとは

1 概観
 スポーツ仲裁裁判所(Court of Arbitration for Sport)はスポーツ関連の紛争を仲裁・調停手続により解決する国際的紛争解決機関(本部はスイス・ローザンヌ)であり、その頭文字を取って一般に「CAS」と呼ばれている。
 CASには国際的なアスリート・競技団体に関する様々な紛争が係属し、この数年は年間で600件前後の案件が取り扱われている。2020年には957件が取り扱われCASの設立以来最多となっている。CASは仲裁機関であり、第三者的な立場で判断を下す仲裁人が選任され、仲裁人の下で仲裁手続が進められる。仲裁人の候補者リストはCASのウェブサイトで公表され、世界各国の弁護士や大学教授等が候補者になっている。CASの手続では原則として英語、フランス語又はスペイン語が用いられる。
 そのCASが、オリンピック時(夏季・冬季とも)に、オリンピック直前及び開催期間中の紛争を迅速に解決する臨時の特別部(CAS AHD)及びドーピング部(CAS ADD)をオリンピック開催地に設置しており、東京2020オリンピック、及び今般の北京2022オリンピックでも設置された。

2 CAS AHDの特徴
(1)審理の対象(管轄)
 一口にオリンピックに関する紛争といっても、CAS AHDでの審理対象となる案件は限定されており、オリンピック直前及び開催期間中の紛争のみが審理の対象となる。具体的には、以下の2つの要件を満たす紛争である必要があり[1]、②の要件を満たすかどうかがポイントとなることが多い。
 ① オリンピック憲章61条[2]の対象となる紛争であること、及び
 ② 当該紛争が、オリンピック競技大会の期間中又はオリンピック競技大会の開会式(今回の場合2022年2月4日開会)に先立つ10日間(今回の場合は同年1月25日以降)に生じたものであること

(2)迅速な審理(24時間以内の判断(原則))
 出場資格に関する紛争をはじめとしてCAS AHDの審理対象となる案件には、競技が行われる日までに解決しないと当事者が救済されない、といった性質の案件があり、迅速な判断・解決が求められることから、CAS AHDでの審理には通常のCASの仲裁手続とは異なった、特別な規則(CAS Arbitration Rules for the Olympic Games)(以下「CASOG仲裁規則」という。)が適用される。
 仲裁廷は原則として仲裁申立てから24時間以内に判断をしなければならない(CASOG仲裁規則18条)。この24時間は、申立書が受理される際に発行される受領時刻(同規則9条b))から起算される。仲裁廷は、①仲裁人となることの受諾、②申立書の確認、③相手方・関係人への通知、ヒアリング期日の指定、④ヒアリング期日における審尋、証拠調べ、⑤仲裁判断といった一連のプロセスを原則として24時間以内に行うことが求められる。
 もっとも、実務的には24時間以内に仲裁判断がなされる事例はそれほど多くはなく、仲裁判断までに数日あるいはそれ以上の時間を要する事例もある。ただし、事案の性質上、殊に迅速な解決が求められる案件(例えば、出場資格をめぐる紛争で、競技が数日後に予定されているような場合)では24時間以内に判断が出されることもあり、24時間以内に判断が出されないにしても可能な限り迅速な審理判断が試みられる。

(3)仲裁人の選任
 CAS AHDで3名の仲裁人により仲裁廷が構成される場合には、CAS AHDの長が特別なリストの中から3名の仲裁人を選任する(CASOG仲裁規則11条)こととされており、申立人・相手方はいずれも仲裁人の指名権を持たない。

(4)仲裁判断・不服申立て
 仲裁判断は(電子メール等で)当事者に通知された時点で即時に発効する。迅速性を重んじる手続の性質上、仲裁廷は、判断の主文のみを先行して当事者に通知して判断の効力を生じさせ、理由を後回しにすることも可能とされている(CASOG仲裁規則19条)。
 仲裁判断に不服のある当事者は、一定の条件を満たす場合に限り、判断が通知された日から30日以内にスイス連邦最高裁判所に対して取消しを求めることができる(CASOG規則21条)が、取消手続には少なくとも数か月かかり、また、取消事由も限定されている。

3 ドーピング部(CAS ADD)
 迅速な紛争解決を目的としたCAS AHDの手続と同じく、ドーピング違反事案の迅速な解決を目的として、オリンピック開催地にはCAS ADDが置かれ、オリンピック競技大会の期間中又はオリンピック競技大会の開会式に先立つ10日間に生じたドーピング違反事例が、CAS ADDでの審理の対象となる。CASADDの判断に不服がある場合には、CAS AHDへの上訴が可能とされている。
 なお、後記III.1のCAS OG 22/08-22/10(ワリエワ事件)は、ドーピング違反の嫌疑に起因する事案であるが、審理されたのはワリエワ選手への暫定的資格停止処分の解除決定の適否であり、オリンピック期間中又は開会式に先立つ10日間に生じたドーピング違反の有無ではないため、CAS ADDではなく、CAS AHDで審理されている。



[1] CASOG仲裁規則1条

[2] オリンピック憲章61条の対象となる紛争は次の2つである。
①国際オリンピック委員会(International Olympic Committee)(以下「IOC」という。)の決定の適用や解釈をめぐる紛争、又は②オリンピック競技大会の開催中、又は大会に関連して発生した紛争であること

II 北京2022オリンピックのCAS AHD事例

1 案件数・案件の傾向

 CASのウェブサイト[3]によると、北京2022オリンピックでは、合計で11件の事件がCAS AHDに係属した。2022年3月1日時点では公表されていないOG 22/06を除き、かつ、OG 22/01・22/03及びOG 22/08-10をそれぞれ実質1件とカウントすると、実質的な案件数は7件と推察され、その概要は以下のとおりである(以下、案件数は断りがない限り、実質件数とする。)。なお、「申立てから判断までの時間」は、公表されている仲裁判断における仲裁手続の経過やCASのリリースを参照に筆者らが推定したものである。

事件番号

当事者

紛争類型

判断

申立てから判断までの時間

 OG 22/01, 22/03

Megan Henry (USA) v. IOC, Megan Henry v. International Bobsleigh and Skeleton Federation (IBSF)

  出場枠の割当

 請求棄却

96-120H

 OG 22/02

Andrei Makhnev, Artem Shuldiakov and Russian Olympic Committee (ROC) v. International Ski Federation (FIS)

  出場枠の割当

 管轄なし

24-48H

 OG 22/04

Adam Edelman (ISR) and Bobsleigh & Skeleton Israel v. IBSF

  出場枠の割当

 請求棄却

48-72H

 OG 22/05

Irish Bobsleigh & Skeleton Association v. IBSF and IOC

  出場枠の割当

 請求棄却

72-96H

 OG 22/07

Jazmine Fenlator-Victorian v. IBSF

  出場枠の割当

 請求棄却

48-72H

 OG 22/08-10

(ワリエワ事件)

OG 22/08 IOC v. Russian Anti-Doping Agency (RUSADA),

CAS OG 22/09 World Anti-Doping Agency (WADA) v. RUSADA and Kamila Valieva,

CAS OG 22/10 International Skating Union (ISU) v. RUSADA, Kamila Valieva and ROC

暫定的資格停止処分の
 解除決定の適否

 請求棄却

48-72H

 OG 22/11

US figure skating team members v. IOC

  五輪期間中の
  表彰式の開催

 請求棄却

0-24H

2 傾向・特徴
 7件の案件全てについて申立人の請求が棄却されている(なおOG 22/02は管轄なし)。このうちInternational Bobsleigh and Skeleton Federation(IBSF)を相手方とする出場枠の割当に関する案件が4件を占めている。
 仲裁申立てから24時間以内に判断が示された案件は1件(OG 22/11)のみであり、申立てから3日前後で判断が示されている案件が多い傾向にある。7件のうちOG 22/01・22/03を除く6件では主文が先行して言い渡され、判断理由を含む全文は後日公表されている。
 OG 22/07では、申立人より、2022年2月5日午前9時1分に申立てがなされ、その際に競技に参加するためには遅くとも同月7日までに判断がなされる必要がある旨の要望がなされたところ、主文は同日に言い渡されている。上記I.2(2)のとおり、仲裁申立てから24時間以内に仲裁判断をする原則(CASOG仲裁規則18条)には例外が少なくないものの、北京2022オリンピックでも、このOG 22/07のように、事案の性質を踏まえ、実質的な紛争解決のために迅速かつ適切な手続の進行が図られたと考えられる。
 この7件のうち特徴的と思われる2件(OG 22/02及びOG 22/08-10)[4]について、IIIで案件の概要を述べる。



[3] https://www.tas-cas.org/en/index.html (2022年3月3日最終閲覧)

[4] OG 22/11は日本でも報道されており、日本チームが暫定3位であったこととも相まって、注目度の高い案件と思われるが、仲裁判断の全文が2022年3月3日時点で公表されていないため、個別の事例紹介の対象として取り上げていない。

III 個別事例

1 要保護者に対する暫定的資格停止処分に関する案件(ワリエワ事件)(CAS OG 22/08-22/10)
(1)事実関係
 Kamila Valieva(カミラ・ワリエワ、以下「競技者」という。)は、15歳のロシア人フィギュアスケーターで、ROC[5]のメンバーとして北京2022オリンピックに出場していた。競技者は、2022年2月7日、フィギュアスケート団体に女子シングル・フリーの選手として出場し、ROCの金メダル獲得に貢献した。しかし、同日、競技者は、スウェーデンにあるドーピング検査機関(以下「本件機関」という。)より、ロシア国内の大会に際し2021年12月25日に提出した尿検体(以下「本件検体」という。)から非特定物質(類型的に競技力向上又はドーピング隠ぺいのおそれのある物質)であるトリメタジジンが約2.1ng/mLの割合で検出された旨の通知(以下「本件通知」という。)を受けた。本件機関は、同月29日に本件検体を受け取っていたが、コロナ禍での人員不足により、結果の報告が遅れたと説明した。
 2022年2月8日、ロシアアンチ・ドーピング機関(以下「RUSADA」という。)は、競技者等に対し、競技者を暫定的資格停止処分とする旨を通知した。もっとも、RUSADAは翌日9日、競技者からの申立てにより暫定聴聞会を実施し、暫定的資格停止処分を取り消した(以下「本件取消処分」という。)。
 競技者は、2022年2月15日及び17日開催のフィギュアスケート女子シングルに出場予定であったため、暫定的資格停止処分が課されるかどうかは、競技者の出場可否を左右する判断であった。
 本件取消処分を受けて、2022年2月11日、①IOCはRUSADAを相手方(かつ、競技者及びInternational Skating Union (以下「ISU」という。)を利害関係人)として、②World Anti-Doping Agency(以下「WADA」という。)はRUSADA及び競技者を相手方(かつ、ROC及びISUを利害関係人)として、同月12日、③ISUはRUSADA、競技者及びROCを相手方(かつ、WADA及びIOCを利害関係人)として、それぞれCASに対し、本件取消処分を破棄し、競技者を暫定的資格停止に処すること等を求めて不服申立てを行った。CASは、IOC、WADA及びISUを申立人とし、RUSADA、競技者及びROCを相手方とする形で、これらの事件を併合した上で、同月14日、以下のとおり判断した。

(2)判断要旨
 本件で適用されるべき原則的な基準は、All Russian anti-doping rules(以下「R-ADR」という。)9.4.1項及び9.4.3項に見られる。9.4.1項は、非特定物質について違反が疑われる分析報告があった場合、暫定的資格停止処分が直ちに課されることを規定し、また、9.4.3項は、当該違反について汚染物質が原因である可能性が高い旨立証するか、当該違反が濫用物質に関するものであり、12.2.4.1項に基づいて資格停止期間が短縮される権利がある旨を立証することによって、暫定的資格停止処分が取り消されると規定している。
 競技者は、16歳未満であり、R-ADRの定義上、要保護者(Protected Person)に該当する。世界アンチ・ドーピング規程(World Anti-Doping Code)(2021年版)(以下「WADC」という。)は、10以上の規定において、要保護者について特別な規定(立証責任や制裁の軽減等)をし、WADCが、要保護者に対し、特別な取扱いを意図していることは明らかである。このように、要保護者に対し、証明の程度を変更し、程度の低い制裁とする他の規定が存在するにもかかわらず、R-ADR及びWADCは、要保護者に対する暫定的資格停止処分に関し、特段の規定を置いていない。
 WADC7.4.1項は、暫定的資格停止処分について、非特定物質に関する違反が疑われる場合は強制とし、特定物質の場合は任意としている。もっとも、WADCにおいて、要保護者が重大な過誤又は過失がないことを証明できた場合の資格停止処分の範囲が、特定物質に関する違反の場合と同様(譴責~2年間の資格停止)であるにもかかわらず、要保護者による非特定物質に関する違反について、強制的な暫定的資格停止処分の例外規定が置かれていない。これは、要保護者に対して異なる厳格な取扱いをするもので、一貫性を欠き、規程において意図しない齟齬が生じていることから、仲裁廷が齟齬を埋める解釈を行う必要がある。
 以上に鑑みると、要保護者に関連するケースについて、暫定的資格停止処分は、WADC7.4.2項等に基づき任意とされるべきである。
 CASの先例や一般原則に基づくと、暫定措置について検討する場合、申立人を回復不能な損害から保護するために必要か、申立人が本案で勝訴する可能性があるか、申立人の利益が被申立人の利益を上回るかを全て検討する必要がある。
 これらの検討にあたり、本件通知が行われるまでに時間がかかったこと、フィギュアスケート女子シングルの開催に関連するタイミングであったこと、競技者による弁明のための証拠収集(B検体の分析[6]も含む)が困難であったこと、本件検体から比較的少量の禁止物質が検出されたこと、問題となるドーピング検査の前後の検査では陰性の結果が出ていたこと、汚染物質又は家庭内汚染の可能性があること[7]、ドーピング違反の場合に競技者に課される制裁の程度が小さい可能性が高いこと等を勘案する。
 また、有限かつ短いキャリアにおいて、メジャーなスポーツイベントに出場できないことは、競技者に回復不能な損害を与える可能性が高い。
 さらに、本仲裁廷は、本件機関による手続遅延の理由がコロナ禍による人員不足であるとしても、当該手続遅延はやむを得ないものとは言えないと考える。本件機関による手続の遅延について、競技者に非はない。当該遅延こそが、競技者に対する困難なタイミングの問題や、申立人をはじめ手続に関与する全ての当事者に対する厄介な運営・管理、そしてスポーツ・インテグリティの問題を突きつけた要因である。
 加えて、本件通知からわずか数日後にフィギュアスケート女子シングルの開催が迫っていることも、重要な要因である。競技者が同競技に出場できないことは、それ自体が回復不能な損害であり、北京2022オリンピックへの出場は、唯一無二の経験である。
 勝訴可能性については、このような短期間の手続で詳細に評価することはできないが、現段階では、競技者は、処分の可否・長さについて、取るに足らなくはない主張をしていると言えば十分である。
 両当事者の利益・損害の比較については、仮に最終的に競技者に資格停止処分が課せられる結論になった場合には競技者は処分を受ける一方、暫定的資格停止処分が課せられたが最終的には資格停止処分が課せられず、又は大幅に短縮される場合には、競技者は五輪で競技する機会を何の補償の可能性もなく失うことになる。五輪に出場した後に違反が確定した場合には競技者の競技結果を無効にすることができるが、五輪に出場する機会は儚く何物にも代えられない。
 以上の理由から、競技者に対する本件取消処分を維持する。

(3)コメント
 北京2022オリンピックの期間中に、フィギュアスケート女子シングルの金メダル最有力候補であった15歳の競技者について、団体での金メダル獲得日、かつ、女子シングルの数日前というタイミングで突如ドーピング違反の嫌疑が浮上したことから、本件は世界中で大きな話題を呼んだ。また、ドーピング検査の遅延という特異な事情や競技者の年齢(要保護者(Protected Person)であること)、以前組織的ドーピングが問題となったロシアの選手であったこと等、通常のドーピング違反事例には見られない考慮要素も多く、適切な処分内容について、様々な意見が述べられた。
 要保護者の概念は、2021年度版の世界アンチ・ドーピング規程から採用されたものであるが、本件仲裁判断でも述べられているとおり、同規程では暫定的資格停止処分に関する要保護者の取扱いについて規定がない。したがって、規程をそのまま適用すると、要保護者である競技者についても暫定的資格停止処分を課すこととなると思われたが、RUSADAが暫定的資格停止処分を取り消した。これに対して、国際レベルの競技者に対するドーピング違反の処分について、不服申立権を有するWADA、IOC及びISUが、CAS AHDに仲裁を申し立てたことから、CASがどのような判断をするのか注目されたが、結論としては、暫定的資格停止処分の取消しが維持された。なお、本件仲裁判断公表後、WADAは、強制的な暫定的資格停止処分の停止を認めた本件仲裁判断は、仲裁廷によるWADCの書換えであるなどとして本件仲裁判断を批判するコメントを公表している。
 予測可能性及び法的安定性を担保し、ひいては不安定な立場に置かれることによる要保護者の精神的負担を減らすため、WADCにおいて、暫定的資格停止処分に関しても、要保護者の取扱いに関するルールが明文化されることが望ましいと考える。
 本件仲裁判断は、暫定的資格停止処分について判断したにすぎず、具体的なドーピング違反の有無及び違反がある場合の資格停止処分等の処分内容については、別の手続により判断がなされる。法的にも事実上も着目すべき要素の多い事案であり、今後も動向が注目される。

2 ROCモーグル選手のワクチン接種に起因する出場枠をめぐる案件(CAS OG 22/02)
(1)事実関係
 国際スキー連盟(以下「FIS」という。)は、2021年5月、北京2022オリンピックの代表選考制度を発表した。モーグル出場枠は30あり、各選手の2020年7月から2022年1月までのワールドカップ(以下「W杯」という。)成績等によるポイントに基づき選考されることになっていたが、新型コロナウイルスの蔓延により、複数のW杯が中止となり、代表選考の対象となるW杯は2020年12月4日から2022年1月14日までに開催される10大会のみとなった。申立人であるロシアのモーグル選手Andrei Makhnev及びArtem Shuldiakov(以下、併せて「申立人選手ら」という。)は、最初の6大会に参加したが、残り4大会、すなわち2022年1月のカナダ大会(以下「カナダ大会」という。)及び米国大会(以下「米国大会」という。)には、以下の経緯で参加することができなかった。
 申立人選手らは、2022年シーズン開始前にロシアで承認されたロシア製新型コロナウイルスワクチンのスプートニクVを接種した。申立人選手らは、カナダ大会及び米国大会への招待を受けていたものの、2021年11月、政策変更により、米国・カナダで承認された新型コロナウイルスワクチンの接種を済ませていることが米国・カナダの入国条件となったが、スプートニクVはこの条件を満たさなかった。
 ROC等は、アメリカオリンピック・パラリンピック委員会(以下「USOPC」という。)と共に申立人選手らが入国できるよう尽力し、同様の状況にあったロシアのスピードスケート選手には特例措置が認められたが、申立人選手らについては認められず、なぜ扱いが異なるかの説明も得られなかった。最終的に、2021年12月4日に米国スキー・スノーボード協会からROC、USOPC、FIS及びIOCに対し、申立人選手らの入国のための特例措置は認められなかったと連絡があった。
 2021年12月31日、ROCはIOCとFISに対し、米国・カナダ政府が入国を認めない判断をしたことに不服を述べ、米国大会・カナダ大会に参加できない選手のため追加出場枠を認めるよう求めた。
 2022年1月8~14日の間も、ROC・FIS間でやりとりがされ、その中で、FISは出場枠の判断はIOCの権限との見解を示した。
 2022年1月17日、FISは五輪フリースタイルスキー出場枠配分表(以下「配分表」という。)を発表した。各NOCは競技毎に5以上の出場枠を獲得できず、フリースタイルスキー出場枠は最大30~32とされていたが、申立人選手らは配分表で39位及び43位であり、オリンピックに出場できない次点候補のうち3位及び7位に位置づけられた。
 2022年1月25日、申立人選手らとROC(以下、併せて「申立人ら」という。)は、FISに対し、フリースタイルスキー出場枠を既に獲得した別のロシア選手2名が五輪に出場できなくなったため、その2枠を利用し申立人選手らのために出場枠を追加すべきだと主張したが、同月26日、FISは、IOCに直接連絡するよう促した。
 2022年1月27日、申立人らは、ワクチンの種類により入国を認めないのは差別的取扱いと主張し、上記のロシア選手2名の未使用出場枠を申立人選手らに与えること等を求めて、CAS AHDにFISを被申立人として仲裁を申し立てた。
 本件では、申立人らとFISとの紛争が「オリンピック競技大会の期間中又はオリンピック競技大会の開会式に先立つ10日間」(本件では2022年1月25日以降)に生じた(arise)紛争といえるかが問題となった。

(2)判断要旨
 “arise”(「生じる」)とは、英語辞書の定義によると、“to come into existence or begin to be noticed, happen”(生まれる、気づかれる、発生する)とあり、CASOG仲裁規則の“arise”は、紛争の終結又は終了ではなく紛争の始まりを意味する。
 本仲裁廷は、紛争は、恐らく早ければ2021年12月31日にROCがFISにレターを送付した時点、遅くとも2022年1月17日にFISが配分表(ROCが要求した申立人選手らへの調整を行っていないもの)を発表した時点で、生じたと考える。この間、同月9日にROCがFISに米国大会を代表選考イベントから外すよう求めたレターも含め、FIS・ROC間で多くのやりとりがあり、同月17日までに紛争が生じていたことに疑いはない。
 したがって、本件ではCASOG仲裁規則で求められる期間である1月25日以降に紛争が生じておらず、CAS AHDの管轄が認められない。

(3)コメント
 本件はオリンピック代表の出場枠の割当に関する紛争であり、申立人は、CAS AHDに仲裁を申し立てたが、オリンピック競技大会の期間中又はオリンピック競技大会の開会式に先立つ10日間に生じた紛争とは認められず、管轄が否定された。本仲裁廷は、CASOG仲裁規則上の“arise”(「生じる」)との用語の意義から、紛争の「開始」時期について幅をもって認定したが、開始時期を遅く捉えても対象期間外であるとの結論に至った。
 申立人選手らは、米国等で承認されていない新型コロナウイルスのワクチン接種に起因して海外のW杯に参加できなくなり、オリンピックにも出場できなくなったものであり、2020年から2022年にかけての世界的なコロナ禍の影響を感じさせる案件である。

以上



[5] ロシア選手団は、Asian Olympic Committee組織的ドーピングを理由に、WADAの決定及びCASの裁定により2022年12月まで主要国際大会から除外されており、ロシア人競技者は、ドーピングと無関係であることを証明できた場合に限り、個人資格でROCのメンバーとして出場できるに留まる。

[6] ドーピング検査においては、提出された検体をA検体・B検体に取り分けた上で、最初にA検体が分析される。競技者は、A検体についてドーピング違反が疑われた場合、B検体の分析を要求することができる。

[7] 競技者は、同居する祖父が心臓病の治療のためにトリメタジジンを服用し、通常携行しており、競技者が祖父と食器を共用するなどした結果、汚染物質又は家庭内汚染によってトリメタジジンを摂取した可能性があると主張している。

  



(作成日:2022年3月4日)

文責:弁護士法人大江橋法律事務所
   弁護士 宮本 聡
   弁護士 細川 慈子  
   弁護士 簑田 由香
  

本稿は法的助言を目的とするものではなく具体的案件については別途弁護士の適切な助言を求めていただく必要があります。
本稿記載の見解は執筆担当者の執筆当時の個人的見解であり、当事務所の見解ではありません。

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